「強姦村から出るか迷う宗教女たちの井戸端会議」映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択 』物語ネタバレと海外の感想評価。何年もの間村の男たちは薬で眠らせた村の女性から4歳児を暴行を繰り返してきた。彼らが再び村に戻ってくるまでの間に村に出るか残るかを決めるために女たちは話し合う。
だが、一筋縄ではないかない。この村の人口は多く、少年少女もたくさんいる、この村を愛する人もいるし、男との共存を望む人、信仰心で動けない人、戦いを望む人、今すぐにでも旅立ちたい人がいる。それぞれの思いを吐き出し合い最後に選んだのは。
もくじ
映画『ウーマン・トーキング 私たちの選択 』物語ネタバレ
2010年
オナ(ルーニー・マーラ)は目覚めると太ももが血だらけになり明らかに何者かにレイプされたことを示している。
この村はキリスト教の一派”メノナイト”たちが住む村である。最近になり、村の男たちが牛に処方する精神安定剤を村の女性に噴霧し昏倒している間に毎晩レイプを繰り返していたことが判明し村の男たちは逮捕され、近くの街に連れて行かれていた。しかし2日後には彼らは戻ってきて村の女性たちは”男を許して村に残る”か”村を追放され天国への入国を拒否される”かを選ばなければならないのだった。
男を許すか、立ち去るか
彼女たちは三つの選択から、
”何もしないで男と共存する”、
”村を出て新天地を目指す(天国には行けない)”、
”男と戦う”
投票を行い
”戦う”か”出ていく”2つに絞られる。
オナ、サロメ、マリチェ(ジェシー・バックリー)、アガタ(ジュディス・アイヴィー)、メジャル(ミシェル・マクロード)、オーチェ(ケイト・ハレット)、ニーチェ(リブ・マクニール)、グレタ(シーラ・マッカーシー)、スカーフェイス・ヤンツ(フランシス・マクドーマンド)村の9人の女性が干し草置き場に集まる。彼女たちは自信や家族、兄弟が男たちにレイプされている。そしてかつてはこの村から破門されたオーガスト(ベン・ウィショー)を加え皆で意見を言い合う。
サロメは、断固として戦う姿勢を見せるが、他の女性たちは家を出るかどうかを決めあぐねていた。
オナは、女たちが残って男たちと新しい規則を作り、若い娘たちのために教育や宗教の新しい制度を確立することを提案するが、マリチェとグレタはこれを夢物語と言い切る。グレタもレイプ経験があり彼女は起きたら歯を折られていた。
マリチェは男たちを許すのが最善と考えを伝える。村の男たち全員にどれほどの罪があるのか、本当に彼らが襲撃を行ったのか、それとも単に加担して襲撃を許しただけなのか、議論する。アガタは”男たちが出て行くのが一番いい”と言うと、女性たちは皆、大笑いする。
一段落してメジャルとオーチェは、村の子供たちを世話する娘のメルヴィン(オーガスト・ウィンター)を見る。帽子を被り少年のような格好をしているのはメルヴィンもレイプ被害に遭い髪を切って少年のような格好をするようにしたからだ。メルヴィンは望まれない子供を出産した辛い過去を持つ。そんなメルヴィンは子供たちの世話をし外から来るものを女性たちに警告する役割も担っている。オーチェはその後水を汲みに行き、オーガストに母親のこと、村での自分の居場所のこと、オナへの愛について話す。
どこに逃げれば良いのか?
スピーカーから「Daydream Believer」を流す一台の車が村のそばを走っていく。2010年の国勢調査のために女性たちを数えるためだ。また、マリチェの夫クラース(イーライ・ハム)が逮捕された男たちの保釈金を集めるため今夜村に戻ってくることを知った女性たちは干し草置き場に戻り、さらに話し合いを続ける。
オーガストが意見を言おうとすると、マリチェは「黙って聞いていろ」と冷たく言い放つがアガタに叱られる。サロメの4歳の娘ミップ(エミリー・ミッチェル)がやって来て、痛みを訴えるため抱きしめる(彼女も最近レイプされている)他の女たちはミップのために皆で讃美歌を歌う。
ミップを見た彼女たちは村を離れる方向に考えるが、村に残していく兄弟や10代の息子たちへの精神的ダメージのことを考えると沈黙してしまう。再び休憩時間、オーガストはオナの子供の世話をするよと気持ちを伝えるが結婚を望んでいないと言割れてしまう。このまま村に残った場合、子供に魔の手がいつ及ぶかが心配なのだ。
休憩を終えた彼女たちは、ずっとコロニー暮らしをしていたため外に出ても”この世界のどこに行けばいいのかわからない”ことに悩む。そこにオーガストは地図を差し出し世界は広いことを伝える。
オナは旅立つことに前向きだが、メハルは自分が襲われたことを考えるとパニック発作に襲われ、サロメはミップを守るため戦うと決めている。アガタは娘たち(サロメとオナは姉妹)に自分の考えや信仰で決めるようにいうと、サロメは村に残れば自分たちを犯した男たちを殺してしまうことを知っている。グレタは旅立ちを決意するが、マリチェだけは男と仲直りして再出発するという考えを変えずにいた。
マリチェは、他の女性たちが村を去ることを望んでいることに腹を立て、オナを売春婦と呼ぶ。サロメはマリチェの夫のクラースが再び子供たちをレイプしたらどうするつもりなのかと反論する。
女たちから少年たちの滞在について意見を求められたオーガストは、子供たちには自分の考えや行動にもっと責任を持てるような教育が必要だと話し、幼い子供たちは連れていくべきだが、残った子供たちは教師のオーガストが指導と教育すると伝える。
話し合いの結果、子供たちの安全と信仰の自由を尊重するため15歳以下の子供は連れていくが、12歳以上の少年は残るかどうかを自由に決めさせることに決定する。今回彼女たちが話し合いを続け残る残らないの是非を記した勝利は村の遺物として残すことが決まる。
エンディングネタバレ
女たちは、一晩で持ち運べるものをすべて集め日の出とともに出発することを決め皆で分担して村の女性全員に伝える。
翌朝、女たちは干し草置き場で落ち合うと皆は出発の準備を始め、サロメにオーガストから銃を手渡される。サロメははいつかまたオーガストに会おうと約束する。
そして、彼女たちは馬車に乗ってコロニーを出て、新しい生活を始める。
海外の感想 IMDb メタスコア:78
5/10
高貴な試みだが大失敗
これは不人気なレビューで明らかに少数意見になる可能性が高いことを前もって認めておくが、自分の気持ちを正直に伝えなければならない。
ミリアム・トイズの同名小説を脚本・監督のサラ・ポーリーが映画化した本作は、崇高な意図から生まれたものかもしれないし、今年最も優れた演技派アンサンブルを起用しているかもしれないが、その全体的な扱いは大失敗である。
この事実に基づく物語は、保守的な宗教団体の女性たちが、自分たちのコミュニティで起こった一連の性的暴行事件にどう対処するかを話し合うために集まるのだが、ドラマチックな映画作品というよりは、大学の討論会のような、回りくどく、木訥な演出で展開される。
アクティビズムから受動性、男女間の関係、許し、信仰、救いまで、これらのダイアログで提起されるアイデアは、特に新しくより良い世界を築くためにどのように対処すべきかという点で、確かに考察と熟慮のための高尚なテーマである。
しかし、この作品での扱いはあまりにも強引で不真面目なため、全体として信憑性に欠け、観客の協調的な関与を促すことはほとんどない。登場人物のひとりが「これはとてもとても退屈だ」と鋭く指摘するほどだ(ちょっと皮肉だが、よく言ったものだ)。しかも、多くの事件やテーマが唐突に発生し、必ずしも十分に解決されていないため、そもそもなぜそのようなものを取り入れたのかが疑問である。
さらに残念なのは、ジェシー・バックリー、クレア・フォイ、ジュディ・アイヴィー、シーラ・マッカーシー、ベン・ウィショー、フランシス・マクドーマンド(出演は余談)など、堅苦しい素材を与えられた役者たちが多くの素晴らしい描写をしている点である。ポーリー監督は、過去に『アウェイ・フロム・ハー』(2006年)などの優れた作品でその名を知られるようになったが、この作品では、言いたいことはたくさんあるのに結局ほとんど言っていない、彼女の到達点が彼女の理解を超えてしまったことは確かだ。
4/10
価値ある題材が、このプロダクションではうまく機能していない
この映画を見ていて、とても退屈だった。これほど多くの偉大で素晴らしい俳優たちが、台詞のほとんどが堅苦しく、硬く、ぎこちない説法で構成されている脚本と格闘しているのを見るのは残念だった。
すべてのアクションはスクリーンの外で行われ、俳優たちはスクリーンの外で起こったことについて話す。私たちはこの映画を気に入り、最後まで見ようとしたが、退屈な長丁場に耐えることはできなかった。確かに価値のある題材だ。しかし、この作品ではそれが十分に発揮されていなかったのが残念だ。どんな映画でも、どんなに神聖な理想を提示しても、観客を乗せるためには、ストーリーが魅力的である必要がある。ただ、この物語や登場人物に引き込まれることはできなかった。
9/10
純粋な悪
“私たちは3つのことをする権利があります。私たちは、子供たちの安全を確保したい。私たちは信仰に揺るぎないものでありたい。そして、考えたいのです。
フランシス・マクドーマンドとサラ・ポーリーは、微妙なユーモアを織り交ぜた題材を信じられないほどうまく扱っていると思いました。
サラ・ポーリーの演出は完璧で、特に登場人物のリアクションをうまく捉えています。カットアウトは、この映画に取り入れられた興味深いスタイル上の工夫で、観客は登場人物に何が起こったかを垣間見ることができ、状況の深刻さをアピールすることができるはずです。この物語は、2011年に実際に起こった事件を基にしたミリアム・トウス2018年の小説を映画化したものである。
2011年、ボリビアにある超保守的なメノナイトのコロニーに住む7人の男たちが、自分たちのコミュニティの女性100人以上を薬漬けにして連続的にレイプし、有罪判決を受けた。メノナイトの植民地は、1874年に入植した東欧人の子孫がほとんどを占めていた。この映画はタイトルに忠実で(文字通り)、主に1つの舞台で展開する。自己完結型のストーリーで、多くを語り、会話を弾ませる。観客は登場人物に惹かれ、彼らが成功し、男性優位の社会から解放されることを望む。映画の中で、女性たちは、残るべきか、戦うべきか、去るべきかについて、会話を交わすことになるのです。特に、ジェシー・バックリーが本領を発揮しているのを見るのは楽しかったです。彼女がオスカーにノミネートされても驚かないだろう。
意味深長な色彩、喚起的なミザンシー、美しい撮影、生き生きとしたサウンドトラック、サブカルチャーに関連した正確な衣装、そして全体的なムードが、『ウーマントーク』を私の中で最も記憶に残る映画体験のひとつにしています。Hildur Guonadottirの音楽は驚異的で、サスペンスと不安感を呼び起こす。また、ストーリーに魅了されつつも、観客に一種の冷たさを与える効果もある。「この作品は、プロダクションデザイン賞、オリジナルスコア賞、脚本賞、そしてジェシー・バックリーかクレア・フォイの女優賞にノミネートされるかもしれない。
ルーニー・マーラ、クレア・フォイ、パディントンことベン・ウィショー、ジェシー・バックリー、フランシス・マクドーマンドなど、豪華なキャストが出演していることもこの映画の利点です。フランシス・マクドーマンドは脇役に過ぎないが、それでもカメラの向こうで制作に奔走していた。
結論として、サラ・ポーリーの『ウーマン・トーキング』は、抑圧、トラウマ、性的暴行の物語である。男女間の権力闘争、そして女性がいかに男性から自らを解放することが難しいかが描かれています。女性に対する暴力は現代社会にもまだ蔓延していますが、状況は徐々に改善されつつあります。女性たちは皆、トラウマに縛られながら、雄弁に自分の考えをまとめようとする。涙を流し、言葉を交わし、逸話を語り、それでもなおユーモアのセンスを忘れない彼女たちの姿は、エスカレートしていく。彼女たちは、フェミニストとしての声明を出し、抑圧者に立ち向かうために団結したのです。
3/10
本当の悲劇の安っぽい搾取
メノナイトのコミュニティで起こった最も衝撃的な事件の、ナンセンスでお粗末なフィクションのために、良い衣装、才能あるキャスト、良い演出を浪費した。この映画は、実際に何が起こったのか、あるいは旧世界のメノナイトのコミュニティでの生活がどのようなものなのかについての洞察を期待しているのであれば、見ない方がいい。
間違いの最たるものは、彼女たちが誰一人として読み書きができないということである。この地球上に、女性の教育を禁じているメノナイトコロニーはない。この映画は、メノナイトをイスラム原理主義者と勘違いしている。旧世界の植民地でさえ、自動車を許可しているので、馬車もありません。また、聖書に基づいた宗教団体では、若い女の子が性別を変えることに寛容であるはずがなく、彼女はその日のうちに破門されているはずです。
このような誤りを無視し、架空の世界の架空の物語として扱ったとしても、この映画は輝きを失い、ストーリーは筋書きのない穴だらけで、そもそも筋書きがあまりないのだから驚きだ。読み書きができない(コンマが何かも知らない)女性たちが、聖書の章と節を暗記しているほど、聖書に精通しているのだ。ストーリーの要素や人間関係のアークを設定するのに多くの時間が費やされるが、決して報われることはない。この映画では、「決断」を下す際に、加害者でない多くの人々のことは決して考慮されず、プロットの要素として完全に無視されている。
プロットやストーリーを完全に無視し、これを人物研究として扱ったとしても、この映画はまだ輝いてはいない。各キャラクターが、他のキャラクターの共感や感情を喚起するようなことしか言わないので、セリフは退屈で平凡だ。50年代に書かれたメロドラマ的な舞台劇の安っぽい模倣のように感じられる(しかも、良いものでもない)。登場人物に同情させる新たな方法や理由を見つけようとすることで、上映時間を無駄にしている。
この映画には本当に何の価値もない。作家の貧しい執筆活動を促進するために現実の悲劇を利用し、流行の社会的課題を促進するために現実の悲劇を利用する映画に変身させた、悲しい試みのように感じられるのだ。どうか、この映画の罠にはまらないでほしい。これを優れた技術や芸術と勘違いしないでください。40年後、誰もこの映画を振り返って、ここに何の価値も見出さないだろう。
まとめと感想「日本には馴染みがない井戸端会議劇」
申し訳ない。
全く共感を持てなかった。
かつてナノメイト原理主義者のクラスコロニーでは男性が女性を薬物で眠らせてレイプしまくる事件がかつてあったこと、彼女たちは男たちが戻るまでに意見をまとめて出ていくか残るかを決めねばならない。
宗教に縛られ、幼女にすら手を出す糞男たちに抑圧されまくった女たちの井戸端会議は不幸だが、めんどくさがりな私は”いいから逃げろ”としか思わなかった。子供を持つ私にはそれしかない。いいから出ろ。
女たちがどんなに話し合いをしても長ったるく浅くどうでも良い信仰心について話をしていても。だ。
この映画がアカデミー賞の脚本賞と作品賞にノミネートしたらしい、あ、そうですか。
である。
宗教に縛られた可哀想な女たち。あ、そう。
さっさと逃げれば?
としか。
2024年アメリカ公開映画
ネタバレ↓